HOUSE VISION研究会報告|日本
第3回「世界から見た東京/スケルトン住宅」2011年4月26日(火)
第三回研究会では、ふたつのテーマ「世界から見た東京」と「スケルトン住宅」それぞれにゲストをお呼びし、問題提起を行っていただいた。
はじめに|原研哉
この研究会の前に東日本大震災の被災地を訪ねる機会があった。日本は、東日本大震災に伴う津波被害、福島の原発事故の二つの大きな復興をどう考えるかという問題と向き合わなければならない。状況はきわめて複雑だが、求められているのは、日本中、世界中の知恵を集め、東北から、先端的な都市、地域、生活環境のカタチが切り拓かれる未来型の復興だろうと思う。
これからは産業のハード、ソフト両面で「家」というものが重要になってくると私は思っている。住宅の一次取得者に焦点を当てた従来の不動産ディベロップメントとは違って、豊かなシニア層の、人生の仕上げのための住まいという新たなマーケットの存在も見えてきた。その市場開発に関しては、ハウスメーカーやマンション供給者、中古マンションをリノベーションだけではなく、エネルギー関連企業や宅配便やコンビニエンスストアのような都市サービス企業を含め、さまざまな企業が手を携え、その市場を掘り下げていくことで、広大な産業のカタチが明らかになっていくのではないか。「家」が日本の産業の未来にとって大きな交差点となる可能性が見えている。まず、人口が減少傾向にあり日本は縮態化していくこと。エネルギー問題が大きな曲がり角に差し掛かっていることなどから、日本の産業技術は工業製品をつくるだけでなく、機能が「家化」、すなわち環境化していくことにシフトしていくだろう。同時に20世紀型のビジネスモデルと言える、右肩上がりの土地開発・販売ビジネスの仕組みは終りを告げ、そうした土地ビジネスでは邪魔者になっていた「建築」が浮上してくる。これからの日本に生み出される「家」への新しい創造性は、新たな価値観を育み、新しい日本の産業となり、内需拡大と同時に中国やアジア諸国にとっても魅力的な輸出商材になっていくのではないだろうか。
日本は高齢社会に突入しているが、老齢化をネガティブに考えるのではなく、こうした世代のために経験を積み、経済的にも豊かで、成熟した大人のプリンシプルを発揮できる市場をつくる。そうしたマーケティングを日本が世界に先駆けて実現するなら、今後の世界のマーティングを日本が先導していくことになるだろう。しかし未だその良質なリファレンスがない。HOUSE VISIONでは、こうした「家」の可能性を具体的なビジョンとして、理想的なカタチを社会に流通させていくことを考えている。これはモノづくりのプロジェクトではなく、情報と覚醒のプロジェクトである。
多く人々が海外での日本が持つ文化的なポテンシャルに気付き始めている。経済的に発展している中国やアジアの諸国では、家に対する所有欲はあるが、住まいのディティールに対する欲望は高くない。一方、日本人は生活に対する希求の水準が非常に高い。しかしその豊かな土壌にどんな木を植えて、どんな実を収穫するか。私たちはその「収穫」までを考えてみたい。
テーマ1「スケルトン住宅」
購入者自身が住戸を自由にデザインできるよう、スケルトンだけを開発するという考え方について考える。これまでの分譲集合住宅販売では、パンフレットに飾る豪華で高級感のある仕上げの部屋が流通してきた。しかし、一人ひとりの生活者が、自分の暮らしを鑑みつつ理想のライフスタイルを描きだせる、文章の読み書き能力に相当するような力を獲得できれば、理想の立地に理想のスケルトンを買って、そこに自分たちの暮らしのカタチを自分たち自身でつくりあげることができるのではないだろうか。それを実現させるために必要な仕組みは何かを考えていく。
- 山根幸治 Kouji Yamane
株式会社サンワカンパニー 代表取締役 - 1953年広島県生まれ。1976年明治大学経営学部経営学科卒業。1978年London Morley College,Trade&Shipping(貿易・船舶輸送課程)終了。1979年株式会社三輪(現株式会社サンワカンパニー)を設立し、現在に至る。 設立当初は材木の輸入に携わっていたが、現在は建材に特化した素材開発から製品の輸入・開発まで幅広く手がけている。保有特許は256件、申請中55件(2011年3月末)。製品の販売はインターネットで行っているが、東京・大阪・名古屋にショールームがあり、実物の確認もできる体制をとっている。2011年6月にはシンガポールにショールームをオープン予定。
リノベーションは
特殊解から一般解、
そして普通のことになる
建築に関わる私たちの耳に「リノベーション」という単語が届き始めたのは2001~2002年だったと思う。この頃に日本にリノベーション産業の萌芽が起こる(リノベーションは日本独自の表現で海外では一般的ではなく、コンバージョンという表現が使われている)。それから約10年。私はそれと並走し、リノベーションの仕事に携わることになった。まずこの10年ほどの動きを、自分の仕事を含めて紹介し、それがこの研究会の序章的なものになれば良いと思っている。
私はOpen-A(http://www.open-a.co.jp)という設計事務所を主宰し、リノベーションだけでなく戸建て住宅の設計も行っている。私にはもはや戸建住宅とリノベーションの間の境界はない。日本ではリノベーションはサブカルチャーとして始まり、今からまさに産業になろうとしている。いわば「文化として生まれ産業として育つ」である。
私が普通の建築家と決定的に違うと思うのはキャリアである。私は建築を学んだ後に広告代理店でメディアの開発に携わった。そのためプロジェクトを動かす時に、どうメディアを使うかについて意識的である。例えば、私は「東京R不動産」というちょっと変わったウェブサイトを運営している。東京のちょっと面白い空き物件、リノベーションとしての空き物件、その可能性がある物件ばかりを集めたウェブサイトだ。メディアであると同時に、実際に不動産の仲介ができるツールとしても機能している。このメディアの存在がリノベーションのアクセルになったと思う。
サンワカンパニー設立の経緯
私は建築関係とは関係なく、貿易の勉強をしていた。30年ほど前、私はインドネシアのバンジェルマシンから100キロほど奥地に入った地域で、材木の集荷や検品を行い、材木を積み出して日本に運ぶ仕事に携わっていた。その時、知り合ったオランダ人ビジネスマンからヨーロピアンローズウッドというバラ科の稀少材の情報を得た。数億円で売買されるスイス製置き時計の材料になり、余った材はイギリスでパイプづくりに使われていた材である。私はこの木材を扱うビジネスをスタートさせ、当時は西欧の建設業界も好景気で、現地の建築家に日本の商材を提供する仕事を手伝ううちに、次第に建築家の知人が増えた。この頃から、建築家のジャン・ヌーヴェル、レンゾ・ピアノ、インテリアアーキテクトのジャン=ミッシェル・ヴィルモットらと、日本で建材や機器開発を行う仕事を手掛けるようになる。こうした仕事を通して、やがて建材の開発に興味を持つようになり、95年頃からは日本の建築家とも建材や機器の開発を行うようになった。
しかし建築家やゼネコンが2000年頃から経営破綻するケースが増えて、その影響で請負業者の債務不履行の問題に直面することが多くなった。しかし私は、建築は究極のモノづくりだと考えているので、このビジネスを続けていくためには日本の建築業界のあり方を変えていかなければならないのではないかと思った。そこで、蟷螂の斧であることを自覚しつつ、業界の改革に挑戦しようと、2000年にインターネットを使った建材や設備器機の通信販売をスタートさせたのである。いろいろ考えた末に、誰が購入しても同じ価格で販売することに決めた。ゼネコンが買っても、工務店が買っても、エンドユーザーが買ってもワンプライスを貫き、現在に至っている。現在取り扱い商材は約4000アイテム(一昨年の2倍)。今年の売り上げは約35億円である。
ワンプライス導入の衝撃
誰が購入してもワンプライスのサンワカンパニーの売り方は、業界の元請~下請のシステムを壊す販売方法でもあり、それを疑問視する大手ゼネコンからは取引口座をすべて取り消された。インターネットで扱う商材は信用できないなど、中小の工務店からの批判も多く、スタート当初はずいぶんと苦労した記憶がある。
やがてサンワカンパニーは、地方の若手建築家の台頭とともに認知されるようになる。地方には、優秀だが不況のために仕事がない若手建築家がたくさんいた。彼らは意識が高いけれど、一生懸命勉強して卒業して社会に出た時には不況で、財政破綻や予算縮小で仕事がない。私は彼らの能力を製品開発に生かすことを考え、ともに製品開発を行うようになった。
私は大手メーカーの製品開発にも顧問として携わってきたが、大手企業は硬直傾向にありスピード感に欠ける嫌いがあった。リスクを負うことを避け、新しい発想の製品開発が滞っていた。こうした状況も壊していかなければ、日本の建築業界はますます停滞してしまう。そこで、小回りの利く中小企業と若手建築家をマッチングさせ、そこに生まれた新しい発想の製品をサンワカンパニーが注文し、在庫して、インターネットで売るスタイルを築き上げた。
在庫のリスクは私どもが引き受ける。「売れるかもしれないからつくっておいて」ではなく、そのコスト、そのデザインでできるのなら製造してもらう。例えば東大阪のバスタブ工場でつくっているシャワーブース(※写真左)のデザインは若手建築家だ。ミニマムサイズのキッチン(※写真右下)はイタリア人建築家にデザインを依頼した。そのキッチンを製造している会社は、つくり始めた頃は10人程度の小さな工場だったが、現在は加工のための設備投資も行われ、社員も2倍になった。それでも生産が追いつかない。同様にイタリア人にデザインしてもらったバスタブ(※写真右上)は、京都で型をつくり上海で製造している。和歌山県から、県内の建具製造業者の仕事が減っているので、何とか活性化してほしいという依頼がありハイドアを開発したこともある。
私どものビジネスモデルは、製品をインターネットでユーザーにアピールして、ゼネコンや工務店に買わせること。このビジネスを始めて見えてきたのは、製品を販売するメーカーの下に商社があり、下請けがあって孫請けがあるという状況だ。孫請けでつくった製品をわれわれが在庫して販売すれば、価格的には中国で製造する必要などないことが分かった。問題は複雑な流通だ。プロジェクトに関わる誰もが儲けられるよう価格設定する風潮をそろそろ改めなければならないのではないか。
安い商品は粗悪品か?
果たして安いモノは粗悪なモノなのか。デンマーク人建築家ヨーン・ウツソンの子息から、スリランカで一緒に製品開発しようと言われ、建築用タイルを製造している。一枚990円。スリランカのタイル産業はもともとは日本企業が進出し技術指導を行っていた。その後、日本は撤退したが、上質なタイル製造技術は今も残っている。その技術で開発された製品だ。このタイルはドイツのハンブルクの地下鉄の壁面に使われている。安いモノは悪いモノという考え方は未だに根強いが、スリランカとはいえ一流の製造技術でつくり、一流の建築家が採用している。価格だけでモノの善し悪しを判断する方々には、よくこの事例を紹介してきた。みなさんの手元にある冊子は、私どもがシンガポールの見本市に大阪の中小製造業者と建築家を連れて行き、プレゼンテーションした際の資料だ。政府関係者も会場を訪れていたが、日本のものづくりは、ホンダやソニーのクオリティが高いことは周知の通りだけれど、末端の中小企業レベルでも非常に高度なものづくりができてきていることに驚いていた。私どもでは今年6月にシンガポールに進出し、ショールームと支店を設ける予定がある。シンガポール人の多くは今でも祖父母の故郷である福建省や上海との関係が強く、私たちが中国に進出しなくても、シンガポールでビジネスを展開していれば必然的に中国市場にも参入することができる。3時間でムンバイにも行けるし、中東やアフリカへの窓口にもなる。日本の金融機関はほとんどシンガポールに進出しているので、金融面でも苦労が少ない。私たちにとってシンガポールは、勝負するには非常に条件が良い場所だと考えている。
建築の価値を計る
新しい視点と問題点
日本の建築業界には、孫請けからエンドユーザーまで12くらいのチャンネルがあり、非常に複雑になっている。業界ではBtoBかBtoCかが問題にされるが、私どもはかなり特殊で、私はBtoABCと言っている。ABCのAはアーキテクト。建築家が直接購入する例は少ないが、素材や設備を決める上で重要な役割を果たすので、アーキテクトは必ず視野に入れなければならないと考えている。これにデザイナーが関与すればBtoABCDになるだろう。こういうかたちでプロジェクトにおける建築家のポジションをもっと上げていくべきだ。諸外国では当たり前だが、日本の住宅開発は、どうしてもゼネコンや工務店が主導権を握ってしまう。ここで建築家の地位を上げると、スムーズに進むことはたくさんあると思う。
また、建築というのは金融と密接に結びついているのに、リノベーションで耐震補強などを行い、どれだけ建築の価値を高めても、銀行は鉄骨造、鉄筋コンクリート造、木造といった工法と築年数でしか評価せず融資してもらえないケースがほとんどだ。だから古い建物は壊すしかなかった。そうではない見方はないのか。
私が今推し進めようとしているのはデューデリジェンスだ。建物には必ずデューデリのシートを付けて取引する。建物の査定を築年数だけで判断するのではなく、建物の価値を建築家に精査させる。この仕事を通して若い建築家にいろいろと勉強をさせたいと考えている。建築への見識も高まるし、客観的な判断もできるようになる。加えて日々の糧にもなる。そういう仕組みをつくりたい。
日本においてはスケルトン&インフィルの開発でもコンバージョンでも、デザインを消防法に適応させることが課題となって立ちはだかる。例えば建具の防炎認定を取得するには検査に350万円が必要になる。性能評価が認められても認められなくても350万円が請求され、仮に成功してもその評定書から大臣認定を発行してもらうのに150万円。合計500万円である。
私は何でも規制緩和すれば良いとは思わない。むしろ健全な規制にしていかないといけないと考えている。日本では炎が出なければ煙が発生しても不燃の認定がもらえる例がある。ドイツ工業規格では間違いなく認定は不可だ。他のEU諸国でもアメリカでも許されないだろう。建材からの有毒ガスが問題になるからだ。これに関しては消防庁に何度も直訴したのだが、聞き入れてもらえず、やり切れない気分になったこともあった。都市開発においても、火災事故対応の緊急車両が通れるように道路を拡幅し、その代わりに建ぺい率が緩和され、昔の町並みは完全に壊されてしまう。道路も20トン耐圧が求められると石畳は無理で、アスファルト舗装しか選択肢がなくなる。確かに人命や安全に関わる問題なので、判断は難しいのは言うまでもないが、こうした規制の積み重ねで都市は無味乾燥な街並に刷新されていくのが現状だ。さまざまな規制を世界基準に照らし合わせて、見直していくことも大切なのではないかと思う。
- 平生進一 Shinichi Hirao
株式会社メックecoライフ 取締役社長 - 1948年生まれ。1972年東京工業大学社会工学科卒業。三菱地所株式会社入社。997年〜2008年商品企画部長としてパークハウスをプロデュース。2009年株式会社メックecoライフ社長就任。soleco(一括高圧受電と太陽光発電を組み合わせたecoマンションシステム)で2010年グッドデザイン賞受賞。2011年次世代型エコマンション パークハウス吉祥寺OIKOSをプロデュース(2010年度国交省住宅建築物省CO2推進モデル事業に採択。2011年度グッドデザイン賞受賞)
この日、急な欠席となった平生進一氏の代理として、三菱地所が提唱するスマートパークハウス構想についてヒヤリングを重ねてきた、HOUSE VISION世話人の土谷貞雄がその構想を語った。
スマートパークハウス構想
まず、三菱地所の新築マンションパークハウスにおける新基準と置けるスマートパークハウス構想についてお話する。平生氏は、自社の社員が新築マンションの購入を検討する前に、中古マンションをリノベーションして暮らすことを考えるようになったと言っている。新築分譲マンションを供給している企業の社員が、それとは相容れない暮らし方を志向し始めているという状況に対して、新築のディベロッパーは何を考えなければならないのか。そこにはいくつかの視点があると平生氏は見ている。インテリアに関しては住まい方が高度化している。お仕着せの住宅よりも、自分のライフスタイルに適う住宅購入したいという生活者が増えていること。それから低価格化。足し算の商品より引き算の商品コンセプト。それから消費者保護の指針と安心安全への希求。基準に則るだけで無味乾燥なデザインになりがちであることと、一方では耐震を始め、住宅に求められる性能基準が高くなっていること。さらに、完成した商品で見るのではなく、完成までのプロセスを知りたいという動きもある。購入者は共働きが前提で、子供も少ない。建物の環境負荷への眼差しも厳しくなっている。消費者にはエコに対する高い欲求があると平生氏は捉えている。さらに、東京には住宅購入以外の選択肢も豊富にある。
そうした時代に三菱地所は、新築分譲マンションの開発において知恵と工夫がより求められるようになり、加えて低価格化と品質基準の向上を実現するためにいくつかの考え方を示している。例えば、外壁のタイル落下防止や雨漏りの問題、コンクリートの品質基準など、消費者は細かい基準に対して十分な情報収集が可能になり、それに対応しなければならない。デメリットについても公表しなければならないし、竣工した住宅がブラックボックスにならないように、建設過程や建物の内部も見えるようにしなければならない。さらに、引き算の商品企画として、カスタマイズ対応が可能なスケルトンインフィルマンションというカタチが導き出された。カスタマイズ対応の自由度をどう実現するのか、そのサービスを考えている。共用部や周辺環境を含めた管理の問題もある。管理会社に一任するのではなく、管理の仕組みを住み手に明解に示さなければならない。
具体的な取り組みと計画
こうした視点からスマートパークハウス構想のコンセプトはつくられた。ベーシックな箱にお客様の要望を生かした多彩なセレクトメニューでつくりあげる次世代型マンション。まさに新築スケルトン&インフィルで、同様の構想はこれまでもあったけれど、時代としてやっと機が熟してきたと言える。
実は三菱地所も、過去にいくつか実験的なマンション企画を手掛けており、天井も床もフルフラットに仕上げ、設備配置の自由度が高い集合住宅も開発している。一方で現実の暮らし方をしっかりと把握して、それに対応する商品構成にする。具体的には、生鮮食品宅配のための納品ボックスや回収ボックス、新聞を自宅の玄関先で受け取るシステム、コミュニティイベントの実現しやすいプランニングなど。また、イベント実現に際して管理規約が邪魔になるのなら、それを解決する方法を模索するなど。商品の構成は、まず箱があって、その間取りや設備・仕様(インフィル)を購入者に選んでもらい仕上げていく。インフィルを選ぶ際には単なるセレクトではなく、カスタマイズ、フルカスタマイズを求める購入者もいるだろう。インフィル開発にはいくつかのステップがあるが、最終的には自由設計まで視野に入れている。
このプロジェクトの推奨に当たり、三菱地所では次のようなことを考えている。まず現地でスケルトンを契約し、その後、打ち合わせのためのサロンを設ける。ここには実物展示はもちろん、プロのインフィルコーディネーターによる住宅設備などの選定アドバイスも受けられ、お客様がインフィルの打ち合せを行う。さらに、契約者だけではなく、契約検討中の顧客に対してはライフスタイル系のセミナーなどをサロンで実施する。ハード面だけではなく、管理規約の考え方とか住民イベントに対する考え方の説明やサポート、将来的にはリノベーションの窓口としての視野に入れている。
一方にはインフィルデパートメント構想がある。これに関しては三菱地所単体で考えるのではなく、HOUSE VISIONの場を通して、業界全体でビジネスの仕組みの擦り合わせを行いたいという考えがある。三菱地所レジデンスは首都圏で年間6000戸の住戸を供給している。他方には中古マンション市場の高まりがある。HOUSE VISIONにはリノベーションの推進という大きな柱があるが、リノベーションのマーケットは成熟までまだ時間がかかると目されている。その間、インフィルデパートメント構想は前述のサロンの機能に組み込み、新築の物件のインフィルのためのインフィルデパートメントをスタートさせ、リノベーション市場が盛り上がるまでにビジネスの仕組みとして確立させることを考えている。まず市場をつくり、そこからリノベーション需要につなげられるかもしれない。その折りにはマンション管理者との交渉などエージェントとしての役割も求められるだろう。ただし実現には課題も多い。山根氏の講話にもあったが、流通や施工の問題がある。個人が購入したインフィルを誰が施工し、誰がサポートするのかといった課題を解決しなければならない。
新築スケルトンのこれから
ここで建築家の飯田誉彦氏が設計した三菱地所レジデンスの集合住宅「パークハウス吉祥寺オイコス」を紹介したい。床と天井はフルフラットで、熱交換器などの設備はコアに集約され、配管はすべて床下スラブに収められている。三菱地所ホームの全館空調システムも導入しているので、空調設備も表には出てこない。スケルトンとして完全に真四角な箱を実現させている。こうした実験的な開発を通して、三菱地所は新築スケルトン住宅への対応を模索している。現在進行中のプロジェクトでは40戸程度の集合住宅で、この規模からスタートさせて、そこで計画が実証できれば次は300戸規模のマンションにシステムを適用してみる。ここで最終的に検証を行い2015年6月から本格的に新築スケルトンのビジネスをスタートさせたいと考えている。まず、最初からすべて自由設計は大変なので、セレクトプランの選択肢をどんどん拡大し、組み合わせのバリエーションで自由度を高めながら、合理化を図っていく予定だ。第二ステップは間取りの変更を受け入れる。同時に自由設計のサポートも考える。第三ステップではサロンを設置し、インフィルのサポートセンターを機能させる。インフィルのコストは、ユニットバス30万、キッチン30万、洗面20万、トイレ20万、収納は3個所で30万、建具や床材を含め150~170万円が目安になるだろう。選べる範囲は壁、床の素材と色、仕上げ、住宅設備、建具、造作家具。もちろんより高額な設備を導入する生活者もいるだろう。
最後にこれからのディベロッパーや集合住宅の差別化について考えてみる。将来、インフィルデパートメント機能が確立されると、暮らし方やインテリアは差別化に働かなくなるため、外観のデザインが商品力を左右するかもしれない。さらに立地、まちづくり、環境や公共という大きな視点が必要になる。コミュニティーサポートや管理体制などソフト面の充実もディベロッパーの差別化になると考えられる。各住戸は生活者それぞれがつくるので、共有スペースの提案も看過できない。それから、性能基準、温熱環境、エネルギー、耐震、免震といった建築そのものの基本性能も重要だ。そこでブランディングをどう考えていくかが課題になるだろう。
テーマ2「世界からみた東京」
世界をかけめぐる最も忙しい建築家である隈研吾氏。「負ける建築」を提唱しながら、環境や人々の要求にしなやかに応答する建築をつくり続けてきた氏の仕事は、そのまま現代の建築のリアリティを物語っていると言える。欧州や中国の現場を動きまわる氏の眼に、世界や中国、そして日本はどのように映っているのか、そこから都市や住宅の可能性がどのように見えているのかを語っていただいた。
- 隈 研吾 Kengo Kuma
建築家・東京大学大学院教授 - 1954年横浜生まれ。1979年東京大学建築学科大学院修了。コロンビア大学客員研究員を経て、2001年より慶應義塾大学教授。2009年より東京大学教授。1997年「森舞台/登米町伝統芸能伝承館」で日本建築学会賞受賞、同年「水/ガラス」でアメリカ建築家協会ベネディクタス賞受賞。2002年「那珂川町馬頭広重美術館」をはじめとする木の建築でフィンランドよりスピリット・オブ・ネイチャー 国際木の建築賞受賞。2010年「根津美術館」で毎日芸術賞受賞。近作にサントリー美術館、根津美術館。著書に「自然な建築」(岩波新書)、「負ける建築」(岩波書店)、「新・ムラ論TOKYO」(集英社新書)
日本は「住宅文化」の
特産地になる
青森がリンゴの産地で、静岡がお茶の産地であるように、日本は住宅という「特産物」がある「住宅の産地」ではないかと、HOUSE VISION発起人の原氏と話をしたことがあった。日本の住宅はクールでかっこいいという見方。それは私が海外のさまざまな都市で仕事をする中で実感していることでもある。ただ、現在の日本のマンションや工業化住宅については「日本人ってこういう家で満足しているのか」という冷ややかな視点で語られていることは否めない。実際に海外の建築家や有識者たちが、日本の住宅に熱い視線を送っていたのは20世紀初頭だった。その頃は日本には木造のステキな家がありステキなライフスタイルがあった。まさにステキという表現にぴったりの状況があったと思う。環境負荷も少なく、それぞれの立地の個性も反映させながら、ある種の普遍性と互換性も兼ね備えていた。互換性には空間や建具のモデュール化が前提として重要で、スケルトン&インフィルの考え方にもつながる。
例えば西欧近代建築の巨匠であるル・コルビュジエは、第二次大戦中で建築設計の仕事がない間に、身体と黄金比から自らの建築の基準寸法、モデュロールを導き出した。しかしそのはるか昔から、日本には木割と呼ばれるモデュールがあり、畳は三×六尺で、京都の町家では空間の寸法が柱の芯々寸法ではなく、畳そのものの寸法で統一されていたので、引っ越す際は畳や建具も一緒に持っていくことが普通に行われていた。それくらい互換性が高かった。つまり、日本の住宅とはスケルトンそのものだったのだと思う。19世紀末から20世紀初頭にかけて日本を訪れた欧米の人々は、スケルトンまで削ぎ落とした住宅のカタチに驚き、高度に洗練された文明を感じ取っていたのだ。20世紀の近代建築運動はル・コルビュジエやルードヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエらによって進められるのだが、その近代建築運動のきっかけとなったのは日本の建築であるという分析を行う建築史家もいる。もっと正確に言えば日本の建築ではなく日本の住宅。スケルトンを磨いて削ぎ落としたような近代建築誕生の背景には日本の住宅文化があると言われている。
ブルーノ・タウトが
見出した日本
ドイツ人建築家のブルーノ・タウトは、日本の住宅を見て感激し、そのあり方を近代建築運動に応用した目利きの一人だ。彼は1933年にナチス政権から、まだ三国同盟に加盟してなかった日本に逃れてきた建築家だ。タウトは3年間日本に滞在し、群馬県工業試験場高崎分場でデザイン指導を行っている。当時はこうした公共機関でも、外国から突然やってきた建築家に仕事を任せる度量があった。彼はこの機会を活かして、3年の間に信じられないほどたくさんのプロダクトデザインを手掛けている。タウトは日本で住宅も2件手掛け、そのうち一件は今も熱海に残っている。「日向邸」(※写真)だ。現在は熱海市が所有しており、見学希望のハガキを送ると見学も可能だ。ごく普通の日本住宅に見えるのだが、タウトはこの家こそ将来の建築の原型になるものだと自負し、ドイツの友人にもそうした手紙を送っていた。
その住宅のどこがスゴいのか。例えば太平洋に面した大開口の窓はクローゼットドアで全開するようにできている。開放すると太平洋と建築物が一体になるような感じだ。奥の畳の間も窓が全開になるのだが、そのためにクローゼットドアのヒンジをドイツから取り寄せて実現した。家の床にはスキップフロアのような段差があり、その高低差で海と人間の関係をつくり出そうとしていた。実際は母屋の庭の下側にあるわずかなスペースに建てられている小作品だが、現在まで建築の歴史に残る傑作として語り継がれているのは、彼が日本の住宅に何を見出して世界に発信したかが、カタチとして残されているからだと思う。
ところが日本ではこの建物はまったくウケなかった。ル・コルビュジエが住宅の代表作「サヴォワ邸」を手掛けたのは1929年。当時の日本の新進気鋭の人々は、サヴォア邸のような真っ白な建物こそ新しい時代の建築だと信じていたからだ。タウトの作品には、日本人が脱却しようともがいていた「古い日本」があり、このドイツ人はどうしてわざわざ古い日本家屋をつくるのかと、冷ややかな目で見られていたのだ。タウトはそれに傷つき、1936年にイスタンブールの大学からの招聘を受けて日本を離れる。彼はイスタンブールで2年を過ごし、過労のために亡くなってしまう。タウトがイスタンブールでつくった自邸を見学したことがある。彼はそこで自分の中の日本とトルコ文化と、西欧人としてのモダニズムを統合した家を建てようとしていた。それがうまくいったかは分からないが、結局、タウトはこの家で暮らすことを果たせず亡くなってしまうわけで、悲劇の題材となるようなエピソードだと思う。
タウトがいちばん気に入っていた日本の住宅は桂離宮だった。シベリア鉄道と船旅を経て1933年の5月4日に日本に到着したタウトは、その日のうちに京都に赴き、桂離宮の門の前に立って竹垣の美しさに感動して、人目をはばからず泣いてしまう。タウトはそれほどまでに、日本の家が持つ普遍的な美や、場所との関係性に感動して、そこに建築の未来を見出した。当時彼は自著に「日本の建築は未来の建築である。それは形の建築ではなくて関係性の建築である」と記している。
日本を源流とする
ライトからミースへの系譜
私が1995年に設計した「水/ガラス」(※写真)は、タウトの「日向邸」の隣に建てられたものだ。実は、現地を訪れて始めて気がついたことだった。私は、明治生まれの父が大切にしていたタウトの木器を受け継ぎ、所有しているが、この意味ある偶然に運命的な予感も感じていた。
「広重美術館」の設計でも、同様に運命的なものを感じていた。広重の代表作に「名所江戸百景 大川橋・あたけの夕立」という浮世絵がある。この絵からも、日本の家にある、周辺環境と生活を一致させるような独特の感覚が感じられ、直線を使ったシンプルな表現にも日本的な美意識が窺えると思う。絵の中では雨の線が何重にも重なり、人間と自然をつなぎ合わせるような表現になっている。この絵画に多大な影響を受けたアーティストと建築家がいる。一人はフィンセント・ファン・ゴッホ。ゴッホは「大川橋あたけの夕立」を模写しており、その作品はアムステルダムのゴッホ美術館で見ることができる。ゴッホはレンブラントも尊敬していたし、同世代のセザンヌも神のように崇め尊敬していた。彼の中では広重は、セザンヌ、レンブラントと同列の存在だった。
もう一人は建築家のフランク・ロイド・ライトだ。ライトがどれほど日本の住宅から影響を受けたかは、研究者によって検証されているし、彼自身、伝記の中で日本からの影響について触れている。1892年、当時28歳だったライトは、シカゴで開催されていた万国博覧会で、日本の大工が現地で建てた、平等院を模した木造建築を見て、自身の建築の作風は一変する。それまでは窓の小さい箱のような住宅を設計していたのに、突然、水平基調で開口部が大きな開かれた建築を手掛けるようになる。何かに目覚めたように、神が降りてきたように彼の建築は大きく変わったわけだ。その最初の作品と言われているのは1906年の「ロビー邸」で、現在はシカゴ大学が管理しており、一般公開もされている。この住宅はアメリカだけではなく、ヨーロッパでも話題になった。ライトはドイツで作品集を出版し、それがヨーロッパの若い建築家の間で評判になる。ミース・ファン・デル・ローエもその影響を受けた一人だった。ライトの建築における水平性や透明性を、モダニズムで磨き上げたのが、ミース・ファン・デル・ローエと言っていい。彼の代表作の一つ「バルセロナパピリオン」の原点はライトの「ロビー邸」で、さらに遡ると日本建築があった。これについてライトは、亡くなる直前に著した自伝の中で「岡倉天心と安藤広重がいなかったら今の自分はなかった」と記している。岡倉天心の「茶の本」を読んだ後、彼は2週間、仕事が手につかなかったという。空間の流動性や自然との調和など、自分がやろうとしていたことは、日本人がすでに何百年も前に確立していた。それにショックを覚えたと自伝で告白している。さらには、広重の浮き絵の中にある空間の扱い方。彼は特に「大川橋あたけの夕立」が横画面ではなく縦画面で描かれていたことに感動している。
近代建築に大きな影響を与えた日本
ライトの弟子に当たるルドルフ・シンドラーの自邸がロサンゼルスに残されているが、私はこの世代の建築家の作品でいちばん好きなのはこの「シンドラー邸」だ。当時は駆け出しの建築家で裕福ではなかったシンドラーは、プレキャストコンクリートを始めとする安価な素材だけで建て、紙のような素材で建具をつくる。お金がない中でどうやって美意識を実現するかに腐心し、その結果、こんな質素な素材でこんなにエレガントな空間ができるのかと驚くほどの住宅になっている。こうした自由さがその後のロサンゼルス建築の美意識にも影響を与えていて、フランク・ゲイリーの素材に対する考え方や即物的な捉え方も、その延長上にあると言われている。穿った見方をすればゲイリーにも日本的な美意識があり、その大本は1892年のシカゴ万博に遡ると考えることもできるだろう。日本の美意識や日本の家は捨てたものではない。
その先にあるものは何か。私にとってその美意識を反映するものは「Bambo House」(2000年 ※写真左)だろう。これはアメリカやヨーロッパが把握しようとした20世紀の日本の家の、さらに先に行くことを考え、竹でつくった住宅で、竹の中にコンクリートを流し込んで柱にした最初の住宅だ。これは鎌倉にある。竹の建築でいちばん話題になったのは万里の長城の脇に建てた「GREAT (BAMBOO) WALL」(2010年 ※写真右)だろう。これは日本では吉永小百合さんが出演したAQUOSのCMはここで撮影されたのだが、吉永さんの姿は映像合成だ。チャン・イーモウ監督の北京オリンピックPR映像の冒頭で「GREAT (BAMBOO) WALL」が使われ、私の仕事は中国でも広く知られるようになった。 中国から設計依頼が舞い込むようになったきっかけになった作品だ。中国のマンション購入者は、ヨーロッパの折衷様式のコテコテのインフィルそのもの住宅のイメージがあるが、実際はこういうシンプルなテイストに惹かれる人がものすごく増えている。日本はこういうテイストをもとに、中国に進出していけば、面白い展開があるのではないだろうか。
フィリップ・ジョンソンも、ミースやライトからの影響を辿ると最終的には日本に行き着く建築家の一人だと考えている。アメリカのコネティカット州でフィリップ・ジョンソンの友人でもある建築家のジョン・ブラック・リーの自邸の改修・増築プロジェクト(「Glass/Wood House」2010年 ※写真)を手掛けた時は、大量の木材を構造体に使って森の中に溶けるようなデザインを考えた。フィリップ・ジョンソン邸がここから500mほどのところに残されており、日本を原点とするならば、もっと自然に溶け込んでいる日本建築の姿を体現したいと思っていた。私の個人的な想いを言うならば、フィリップ・ジョンソンよりこれが日本だという建築をつくりたかった。日本建築から影響を受けた近代建築、その歴史を私が総括するなら、こういうカタチになる。
この後、出席者による活発な意見交換が行われたが、その中から、中国総合情報センター(CRC)の安田玲美氏による発言をご紹介したい。安田氏は中国における住宅ビジネスで、日本の優位をうまく生かしながら、中国市場の新しい可能性を模索している。中国の住宅事情の現状をお話いただいた。
- 安田玲美 Narumi Yasuda
北京世研伝媒広告有限公司 総経理 - 大学で中国語を専攻、1994年に中国へ。中国社会科学院調査センターを経て、2001年、中国WTO加盟をきっかけに市場調査会社・CRC世研を設立。多くの産業分野における中国市場調査を手掛ける。その後、コンサルティング、PR、物販等業務を拡大。月刊誌『東亜企業家』を発行し、WEBサイト『東アジアフォーラム』を運営する。2009年12月、中国住宅産業化フォーラムを設立し、すでに全国10数都市を巡回、中国の住宅産業分野における日中協力を推進する。
CRCは中国がWTOに加盟した2001年から、中国のマーケティングリサーチを専門に行ってきました。それ以前は、私は中国社会科学院の調査センターで、日本と中国の調査事業に携わっています。中国は2001年から市場が大きく発展し、その中でもとりわけ住宅市場は活況を見せ、これからもまだ大量な供給が求められる大きな市場ということで、住宅関連ビジネスは中国でも注目されています。中国の集合住宅はスケルトンで売られることが普通で、上下水道や電源コードなどは部屋まで敷設されていますが、基本的にはコンクリート打ち放しで、住まい手がそこにインフィルで居住空間をつくりあげます。それまで中国の消費者は自分の家を所有するという経験がなかったのに、いきなり自分で「家」をつくらなければならない状況に直面しているわけです。
中国には、住宅設備や建設資材などが売られているインフィルマーケットが必ずあって、水道管から釘一本まで施主自身で選び、購入しなければなりません。衛生陶器メーカーは中国国内で2000社あると言われています。それでも施主はすべてを自分で選び購入して、それを施工業者に支給して内装工事をしてもらう。そもそもコンドミニアムのようなスタイルの住居に住むのも初めての人が多く、暮らしの経験値は低いのに、情報とモノだけは大量に溢れているという状況です。
しかし不思議なことに、建築家やデザイナーの関与は薄いのが現状です。その理由の一つとしては優秀なデザイナーはデザイン料が高いという背景もあります。しかし施工業者がサービスで提供するデザインは生活者の趣味には合わないものがほとんど。そこで雑誌やインターネットの情報をもとに、自分でつくってしまうわけなのです。もちろん素人なので、イメージだけで選んだモノが、不釣り合いだったり使いにくいなどの問題が当然のように起こってきます。それが分かっているので施主は改装を見越して、3~5年、長くても10年程度保てばいいという内装を施す例が多くなります。そうなると、新築マンションに入居したのに、5年も経つとマンション中のあちこちで改装工事が始まることになる。一棟のマンションは常にどこかが内装工事をやっていて、とても静かには暮らせない。これが中国の現状です。
こうした状況は産業的にも環境的にも問題があり、中国政府は2001年から、何とか住宅の産業化を図り、内装付きマンションを販売するよう提唱していますが、それがようやく動き始めたのは2年ほど前からです。
私が中国の現状を見て危惧するのは、市場が与えられたモノをただ受け入れるだけの状況なので、与える側のメーカーがどのような責任体制で製品を供給するかについては、未整理の状態ということです。
一般的な中国の住宅は欧米の様式が採用されています。中国も日本も東アジアの文化圏の国なのに、なぜか欧米スタイルの浴室が当たり前のように導入されています。中国の生活習慣や文化背景に合った暮らし方があると思うのですが、そうした開発に経験と知恵がある企業が乗り出さない限り、無批判に生活習慣や文化に合わない住宅開発が進行し蔓延してていくのではないかという危機感を持っています。中国からの歴史を継承している日本の企業がこの市場に参入し、中国とともに、これからの中国の住宅のあり方を考えていくことで、適切な住宅市場が形成されるかもしれません。そこで今、中国建築内装協会と中国住宅産業化を考えるべく、新たな事業を進めようとしているところです。これまでの中国市場にない新しいライフスタイルを提案するには最後のチャンスの段階にきている。日本企業は、同じ文化圏で日本と中国の暮らしをつなげて、将来の中国人から「こんな暮らしの提案をしてくれてありがとう」と感謝されるような生活文化を築いてほしいと思うし、まだギリギリ間に合う状況だと私は見ています。
最後に、隈研吾氏による建築家と集合住宅の関わり方についての一言も記しておきたい。
歴史的には建築家は住宅から阻害されてきた。それは建築家自身にも問題があったと思う。西山夘三が食寝分離などの間取り論を唱えていた1950~60年代には、建築家が間取りを発明する能力があると信じていたし、さまざまな提案がなされてきた。しかしマンションが商品として一般化するにつれて、建築家が考える間取りと、売れる商品としての間取りはどんどん乖離していった。それは日本にとっては不幸なことで、日本の建築家は美学的なセンスでも世界に通用する能力を有していると思うのだが、そうした職能が住宅市場から阻害されてしまった。その阻害が生み出したものがデザイナーズマンションと呼ばれる集合住宅で、阻害の状況が酷いからデザイナーズマンションが新鮮に見えたという補完関係に過ぎず、そこを突き抜けるようなモノをHOUSE VISIONはつくろうとしているのではないかと私は期待している。
終わりに|原研哉
私は「欲望のエデュケーション」という言葉を時々口にする。ニーズは教育する必要があるのだと考えている。こんなふうに考えてみよう。現在の身体のフリーな快適さからものを成立させていくとお腹はどんどん出てくるが、そのニーズに合わせてベルトを緩めるとどんどん体型がルーズになっていく。そういう消費者を育ててはいけない。そうしたユーザーに合わせると日本の住宅はどんどん格好悪くなっていく。そうではなくて、グッドシェイプさせていく方向に欲望のカタチをエデュケートしていくことが、マーケティングの中にも求められてくるのではないか。その部分に建築家だけではなく、住宅産業に関わるあらゆる業態業種が関わり、エネルギー供給から宅配まで、さらにはそこにどんな言葉が交わされるかまでもが住まいのカタチを形成していくのだと思う。それが世界に影響力を与える住まいのカタチになっていく。美意識産業はそういうところに育まれるのではないだろうか。
文責=紫牟田伸子