
パブリックとプライベート─ハノイの街を通して
この街は、どの通りにも人があふれている。家が密集していて、家の中が暗い事もあるのかもしれない。家の中より外の方が、快適なのかもしれない。とはいえ、誰もが道にテーブルとイスをだして、自分の居場所を確保しているこの風景は圧巻だ。食堂やカフェも当然のように道にテーブルをおいて、まるで自分の敷地のようにつかっている。家から外はパブリックだという考え方は、この街にはなじまない。道には人があふれ、道路には自転車やオートバイが縦横無尽に行き交っている。活気にあふれ、朝から夜まで人の耐える時はないのがこの街の風景だ。こうした街に訪れた人は、整然とした街とはかけ離れた、活気に満ちた姿に魅了されるのだろう。しかし、その魅力とは何なのだろうか。今回は、そのことを少し考えてみたい。

家の中のエレメントが街に飛び出す
パブリックとプライベート、そこには何かしらの境界線が存在する。外からの人の侵入を防ぎ、自分の安全を守るためにも、どこかにその境界線がある。特に都市の生活では、大事なことだろう。しかし、時としてその境界線があいまいになる。家が外に開いていく時間、とでも言っていいだろう。住むということが、ある共同体に対して開いていくこと、それが暮らしているという実感にもつながる。行き交う人、隣の人との会話、なじみの行商の人からの買物、閉じることと開くこと、それを時間帯によって変更している。そのための装置として重要なのが、テーブルとイスだ。テーブルとイスは、「話しかけても平気です」という記号なのだ。
日本の江戸時代にあった「ばったん床几」、京都の町屋の家の前にある折りたたみの長椅子のことを思い出した。こうして時間帯によってパブリックとプライベートの境界線を変更して行くこと、そのための装置をもっと考えてその質をあげていくことができれば、街の風景はかわるかも知れない。

小さな、しかし大量の同じエレメント
ハノイの道に置かれるプラスチックのイスとテーブル。安く、軽く便利なものだが、もう少しいいデザインはないものかとも思う。なにしろこのエレメントは、街中に大量にある。こうした小さいけれども、街の風景を構成している大量の同じエレメント、他にもテントや窓のデザイン、名もなきデザイナーが供給する大量のものの質を上げてみること、そこに今までの都市計画手法にはできなかった都市へのアプローチがあるのかもしれないとも思っている。根こそぎ、街を開発するような大型の都市開発に対して、それまでの都市の構造を守りながらも、街を更新しつづけること、そこにアジアの都市の発展の可能性を感じている。もちろんただのノスタルジーにならないように、注意深く都市を読み取って行きながらも。次回は同じような視点で、ジャカルタの街、チキニというカンポン(集落)の話にも触れてみたい。(文責 土谷貞雄)
べトナム・ハノイで、HOUSE VISION in VIETNAMが始まっています。 6月にキックオフをし、9月から毎月セッションが始まります。9月と10月のテーマは、環境とエネルギー/建築にできること、11月と12月のテーマは、コンパクトな住居/都市の住宅モデルについてです。11月のテーマでは、10年以上前に日本の研究チームがおこなった「HANOI MODEL」の提案者小嶋一浩氏にも登壇をお願いして、今べトナムの建築家にそのことの意義を問いかけてみたいと思っています。研究会は、毎月第二土曜日ハノイで行っています。